第3回:沓澤敬さん・佐知子さん 「IターンとJターンの夫婦が作り始めた夢のカタチ」(三重県津市)

投稿日: 2014年01月22日(水)14:24

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沓澤敬さん

1970年福島県まれ。
大学時代に声楽を学んだが、生活のなかで日本料理の必要性を再認識し、
調理人の道をめざす。
栃木県板室温泉の老舗旅館で料理人として働いているときに
現在の奥さま・佐知子さんと出会う。
ともに芸術に造詣の深いふたりは意気投合し、結婚。
その後、那須高原でbar×gallery「朔(SAKU)」をオープン。
2013年、東日本大震災を機に三重県津市美杉町に移住。
夫婦、子どもふたり、犬とヤギの田舎暮らしが始まった。

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今年5月に公開される『WOOD JOB! 神去なあなあ日常』のロケ地にもなった津市美杉町。
奈良県と隣接する中山間地域の美杉町は、豊かな森林と清流に恵まれ、都市部からの移住者も少なくない。
この地の静かな景観に恵まれた古民家に、新しい生活を始めた家族が住んでいる。

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■人生に訪れた転機をポジティブに

沓澤敬さんは43歳の福島県生まれ。
東京の武蔵野音大院卒で6年間本格的に声楽を学んだ経験を持つ。
クラシック音楽界も他の芸能同様に、才能と素質が重要な世界だ。

敬さんは大学院まで音楽を続けたが、地に足がついていない状態のまま勉強していたことに気づき始め、将来への道が見えないでいた。
その頃、ある調理人との運命的な出会いをきっかけに、日本料理という自身ではわかりやすい道を一からやり直すことに決め、調理人の道をめざす。

「美しいものに惹かれる」敬さんは日本料理の世界の奥深さにはまり、栃木県板室温泉の老舗旅館「大黒屋」の調理人として腕をふるう。
大黒屋は敷地内に美術館やギャラリーを併設する、アートを主軸に置いた素晴らしい旅館で、敬さんと佐知子さんは、ここで初めて出会う。

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佐知子さんは、三重県南部の海山町生まれ。
海の幸と山の幸に恵まれ、温暖な気候で過ごしやすい地域だ。
この地で中学まで過ごし、高校からは大阪の親戚の家で生活を始めた。
京都の大学で美術を学び彫刻や陶芸の面白さに目覚め、卒業後、彫刻家の道を歩み始めたころ、25歳のときに那須の大黒屋のギャラリーで個展を開く。
「会期中に何どもギャラリーに訪れるちょっと風変わりな男性客がいてね…」それが、敬さんとの出会いだった。
そしてその後の結婚までの道のりは短かった。

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敬さんは、大黒屋で10年の修業を経て、那須高原にほど近い町に『bar×gallery「朔(SAKU)』をオープンさせる。
店の前には広大な風景が広がり、ロケーションも最高の店だ。
厳選した食材を使い最高の料理と、おいしいお酒でおもてなしする店は、佐知子さんが作る独特の世界観を持つ器とともに、多くの熱狂的なファンを獲得した。

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この地に移ってから、藍くんと風花ちゃんの子宝にも恵まれた。
幸せな生活を誰もが疑いもしないとき、2011年3月、東日本が凄まじく揺れ、一家の行方も大きく変わっていった。

■栃木から三重の地へ

一度は、那須の地に住み続けるとこも考えたが、いろんな情報を手にするにつれ、子どもを育てる環境にはふさわしくないと、その2カ月後に新しい住みかを探し始めた。

多くの候補のなかで美杉町に決まったのは、いくつかの理由がある。
佐知子さんの実家が近いこと。近くに清流があること。田畑も含め、自給できる環境であること。

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最終的に手に入れた新生活の場は、敷地面積1800坪。畑と茶畑、果樹畑のある古民家だった。

このとき敬さん・佐知子さん夫婦は、すでにこの地で新しいお店を開くことを、ひそかに計画していた。

「とにかく引っ越しが大変でしたね。美杉の家はしばらく無人だったため、荒れていた部分を直さなければ住めなかったし。那須の家には、家財道具だけでなく、お店の厨房機器もあったので…」

もちろん那須時代から飼っていたヤギのシロも同様。
「クルマに入るサイズの檻を最初に作りました」と話す敬さん。彼の人柄が表れるエピソードだ。
那須の店は多くの常連客に惜しまれながら7月末に閉店。美杉での新生活はその翌月、暑い8月から始まった。

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「家のすぐそばを流れる清流が最高でした。夏場は子どもも遊びますが、岩場に川床を設えれば、最高の席になります」とはやくも、お店の構想が膨らむ。
現在の生活は、佐知子さんが地元の小学校の講師として勤務。敬さんは、敷地にある小さな小屋を新しい店にリノベーションすべく、日々構想を練っている。

「もともとあった古いおくどさんは活かしたいんです。小さな小屋ですから、屋外にオープンテラスのような客席を設けて…」

雑木が点在し、見晴らしのよい場所だからこそ、自然を満喫できる店にしたいとも。
この新しい店作りには地元の有志や古民家再生に関心の高い職人らが力を合わせて「team SAKU」というグループを結成。いろんな人の思いを支えに、生まれてくるお店が待ち遠しい。

■豊かな環境とともに生きていく喜び

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また昨年春より美杉町で開催されている「美杉むらのわ市場」では、毎月「イマココ料理 SAKU」の名前で、地元の食材を使いとびきりおいしい料理を提供している。
月1回の市場だが、すでに食通の間では噂になっているとか。
美杉の鹿肉や猪肉、地元の野菜をふんだんに使った料理は、たしかに“今ここ”でしか味わえない贅沢さだ。
市場に出店している地元の生産者とのコミュニケーションも深まり、生活の場も整えられていく。

昨年12月、近くにあるリゾートホテルが開催したクリスマスイベントで、敬さんは久々にその美声を披露した。
「こんな山奥にも、音楽家が他にもいらっしゃるんですよね。嬉しくなりました(笑)」
こうして少しずつ、美杉住民になっていくのだろう。

「実は彼女の両親が、近くに家を新築しているんです」と敬さん。美杉町の良さを実感されたのか、佐知子さんのご両親も引っ越しすることになったのだ。
何よりもふたりのお孫さんの成長ぶりを日々、見られることが幸せなこと。彼らのように、親子ともども移住者になるのも、これからはめずらしくなくなるかもしれない。

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佐知子さんは、引っ越ししてからは、絵本づくりにもチャレンジ。
2012年に津市で開催された「第3回津市手づくり絵本コンクール」では津市長賞を受賞。現在は、四日市メリーゴーランドの絵本塾に通う日々だ。

また作陶していくうえで、環境にやさしい新しい窯を作る計画もある。
一般的に薪窯では大量の薪が消費されるが、佐知子さんが作ろうとしている窯は400kg程度で半分以下で済むという画期的なもの。また専用の薪でなく、廃材や端材でもいいと言う。

「敬さんは、生活排水をいかに汚さずに川へ返すか、一所懸命に考えています。わたしも制作活動において、少しでも環境へのダメージは押さえたい。田舎に住見続けていくためにも大切なことだと思います」と、自然とともに生きていく者ならではの覚悟が潔い。

「朔って新月を指すでしょ? これから始まるというワクワク感も好きだし、ニュートラルであることも大切。そんな意味を込めた名前が好きなんです」と敬さん。
新しいお店「朔」がオープンするのが待ち遠しい。前の持ち主が育てていた茶畑の茶葉から紅茶を作ってみたり、庭に育つシナモンの木の根から、スパイスを作ったり…。

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日々、素敵な生活を送っている沓澤家。取材時にいただいた鹿カレーとベイクドチーズケーキのおいしさは忘れられない。
薪ストーブを使って敬さんが自家焙煎してくれたコーヒーの香りも…。

映画ロケ地の故郷に、知る人ぞ知る名店が生まれるのも、そう遠くない。

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文 立岡茂
写真 山羽宏樹(一部沓澤さん提供)
取材日 2013年12月18日・25日