第4回:比田篤志さん・彰子さん「いまだ旅の途中。」(三重県亀山市)

投稿日: 2014年06月19日(木)10:00

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比田篤志さん

1979年神奈川県生まれ。
10代の頃から、飲食店を経営する夢を持っていた比田さん。
資金をためるためにいろんな職業に携わる。
同世代で、その生き方が当時の若者たちから圧倒的な支持を得ていた
自由人・高橋歩に憧れ、せっかく貯めた開業資金も
旅行費用につぎ込んでしまうという破天荒な若者でもあった。
現在の奥さま・彰子さんと初めて出会ったのは
伊豆諸島の式根島でアルバイトをしていたとき。
そして比田さんは2002年、23歳で三重に移住し、
ふたりの関係は急速に深まる。
紆余曲折があるのは、誰の人生にもよくあること。
2010年、晴れて結婚したふたりは、
その秋に亀山市の景勝地・石水渓近くの山荘で
オーガニック・レストランを始めた。

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■夢は自営業! その先にあったものは…

神奈川県座間市で生まれた比田篤志さんは、現在34歳。
都市部に近いありふれたベッドタウンで育った篤志さんは
10代のころから世界チャンピオンを育てたビリヤード場に出入りする、
一風変わった若者だった。
高校卒業後、大学へ進学するよりも友人の紹介で、とび職の世界へ。
「あのころは、とにかくお金を貯めて自営業者になりたかった」のだそうだ。

周りからは、目標をしっかりと持つ若者のように映ったが、実際のことろは少し違う。
とび職で同年代の若者に比べれば収入は多かったが、
貯金が溜まる一方で店を持つ夢が褪せていった。
「高橋歩の本を読んで、もっと違う生き方があるような気がして…」
ある程度、貯金が溜まったら篤志さんは、旅に出ようとひそかに決意していた。

21歳の夏。篤志さんは、突然思い立ったように伊豆の式根島に向かう。
住み込みで夏リゾートのアルバイト要員に加わった。
アウトドアや人との出会いに憧れていた若き日。
自営業者への夢は、だんだん小さくなっていたころだ。
そして、式根島で運命的な出会いがあった。
現在の奥さま・彰子さんとの出会い。
彰子さんも同様に夏季だけのアルバイトに来ていたのだった。
「最初の出会いは特にトキメキのようなものもなかったんですよ」
と当時の様子を笑いながら話す、彰子さん。
このときはまだ、お互いが将来の伴侶になるとは想像もしていなかった。

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秋になり、日常に戻った篤志さんだったが
仕事にかける熱意はどんどん下がる一方。
ついには半年ほど仕事をやめて、ブラブラ生活するようになっていた。
「自分でも、やりたいことがコロコロ変わるんですよね」
旅に憧れ、新しい出会いを求めるうちに
篤志さんのなかに眠っていたボヘミアン的な人格が、
ひそかに目を覚ましはじめてきた。

■高橋歩式、アジアを旅する日々

22歳。篤志さんは突然、何を思ったのかフランチャイズ契約で、
軽便運送の仕事を始めた。
「特に理由はなかった」とは思えない、電光石火の行動力だ。
彰子さんによれば、「突然思いついたことを始める性格」なんだとか。
そして深く考えずに行動した結果、残ったのは100万円の借金だけ。
「とびの仕事をして借金は返しました」というのなら
ずっととびの仕事をやれば? と老婆心ながら思ったが
「自分の思う通りに生きたい」篤志さんには、
失敗も人生のなかでのささいな経験だということだろうか。

2002年、23歳のときに篤志さんは三重県鈴鹿市に越してくる。
彰子さんの実家は隣接する亀山市。
すでに、このときふたりは付き合っていたのですね、と質問を投げると
「えっ。このときはまだ何も。式根島で知り合ってから
電話で近況などは報告しあっていましたが…」と予想外の答え。
ただ知り合いがいる三重に興味を持ったのだとか。本当だろうか…

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鈴鹿に越してきた篤志さんは、得意のとびの仕事で生計を立てていた。
と思ったら溜まった貯金で、初めての海外へ旅立ったのだ。
2003年、24歳。2月の旅立ちだった。行き先はアジア。
バッグパックで廻った国は、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオス、
ネパール、インド…。
旅を始めてすぐのこと。タイで乗った深夜バスで、甘い旅行者ならではの洗礼を受ける。
バッグに入れていた現金30万円を盗まれたのだ。
普通なら、消沈して旅行なかば帰りたいところだが、篤志さんはこたえなかった。
「ほかにも現金はありましたからね。なんとななるさぁ」
ポジティブなのか、こだわらない性格なのか。
とにかく旅は続き、最後にたどり着いたインドでは、1か月以上も滞在した。
「結局日本に帰ってきたのは、翌年の夏でした」
6か月間をかけた初めてのアジアの旅は、確実に篤志さんを変え始めた。

日本に戻ると、今度はすぐさま北海道へ。
旅行で貯金を使い果たした篤志さんは、資金を作るためにじゃがいも収穫の仕事に。
秋まで、仕事を続け資金が溜まったら、次は再びインドへ。
3か月間をインドで過ごし、いったん日本に戻ったと思ったら
すぐさま翌年の2月、今度はオーストラリアへ。
なんとも目まぐるしい日々が続く。

オーストラリアでは、ヒッピー文化が今も色濃く残るバイロンベイで過ごした。
この年、彰子さんも単身オーストラリアへと旅立った。
1年間のワーキングホリデーのビザを取得し、現地の生活を堪能するためだ。
なによりも一番の目的は、篤志さんとの再会だった。
現地で落ち合ったふたりは、農場で収穫作業をしたり、
ホテルの清掃などをしながら海外生活を満喫した。

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そして日本に戻ってきたふたり。
篤志さんは26歳、彰子さんは23歳。2人にとってまだまだ人生は長い。
篤志さんが次にチャレンジしたのは陶芸だった。
ただ「やりたいなぁ〜」と思った結果の行動だったそうだ。
伊豆の伊東にある工房に住みつき、体験工房などの助手をしながら
工芸作家への道に進む…はずだった。
それまでに描いていたイメージと、実際のギャップが大きかったのか
なんと篤志さんは、程なく座間市の実家に戻ってしまう。

そのころ彰子さんは、当時亀山にあったオーガニック・レストラン「月の庭」で
働いていた。世界に触れ、食べものこと、環境について真剣に考え始めていた。
篤志さんは、相変わらずボヘミアンな生活が続いていて
今度は亀山のアパートに住み、工場や、茶農園、便利屋から居酒屋まで…
将来のことなど、まったく頭にないような日々を過ごす。
そんな篤志さんの様子に、彰子さんはきっと不安だったに違いない。
将来の約束をしていたわけではないが、気づけば27歳。
結婚のことも考えないわけではなかった。
意を決して結婚話を切り出したのは、彰子さんだった。
その後、ふたりの間にどのような時間が流れたかは、想像することとしよう。

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■結婚。そして店を中心に新しい生き方への模索を

2010年、4月。ふたりの思いが結ばれ、晴れて結婚式が執り行われた。
親族の披露宴は「月の庭」でスタッフ全員の手作りの料理。
そして100人を超える友人やゲストを迎えたパーティーは
亀山の自然に囲まれたキャンプ場で。
もちろん、こちらもすべて手作りの素敵なイベントだった。
この会場が、後のふたりのかけがえのない場所に育っていくことを
このときは、まだ誰も知らなかった。

このキャンプ場のすぐ前に「望仙荘」という山荘がある。
昭和54年に地元有志らの出資で建てられたもので
石水渓に訪れる観光客の宿泊施設として利用されていた。
しかし周囲に新しい施設ができたことや、老朽化のため使われなくなっていた。

結婚パーティーのとき、篤志さんと彰子さんは、山荘の大家さんにすかさず尋ねる。
「貸してもらえませんか?」
幸い彰子さんの実家も近く、ご両親がこの山荘と無縁ではなかったことから
大家さんも快諾。古びた山荘が若者たちの手で活き返るのなら…
そんな想いもあったのだろうか。

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彰子さんはその年の8月で「月の庭」を辞め、お店の準備を始める。
自分たちの手でリノベーションできるところはすべてやった。
メニューは、「月の庭」で学んだ自然食をベースに彰子さんが担当。
そして、ふたりにとってかけがえのないお店、
「山小屋カフェ・望仙荘」が2010年11月に誕生した。

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亀山の一番奥深い地域にありながら、木々に囲まれたロケーションも手伝って開店してから、数か月で若い人たちの人気スポットに。
しかし篤志さんたちがパーティーを開いたキャンプ場は
整備されずにそのままの状態だった。
篤志さんはこの思い出の場所に、たくさんの人が集まることを夢みた。
そして、ひとり荒れたキャンプ場の整備に日々取りかかったのだ。

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その年の秋、篤志さんは有志らと、このキャンプ場で
「亀フェス2011」という音楽イベントを開催。
環境に配慮した企画と味わい深いミュージシャンを集め、
250人を超える参加者が集まった。
「自分らしいことができたと思います」と篤志さん。
今までに出会った仲間と力を合わせて、
ひとつのイベントを成功させた自信は明日への活力になる。

さらに翌年は「米フェス」と名づけた収穫祭でキャンプ場を賑わせた。
農業と環境について考えるイベントは、100人の来場者があった。

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望仙荘のすぐ近くに、県内でも少なくなった棚田がある。
他の棚田同様、機械が入らないため年ごとに放棄田が増えてきていた。
「食事を提供する店なので、食材は出来る限り自分たちの手で作りたかった」のが稲作を始めたきっかけだった。
持ち主から田を借り、仲間たちと一緒になって、無農薬、無肥料でチャレンジ。
最初は地元の農家の人に助けてもらいながら育てた。
広さに見合った収穫ができるようになってきたのは、3年目から。
現在では、お店のごはんに自家米を出せるまでになった。

誰の目にも、これまでボヘミアンのような生き方をしてきた篤志さん。
亀山の地で家族にも恵まれ店を構えた。
篤志さんにとって、ここが最終目標地点なのだろうか。
「人との新しい出会いが何よりも好き」なのだと言う。
きっと今日も、お店で新しい出会いが待っているのだろう。
そんなことを考えていたら、コーヒーを淹れる篤志さんの横顔が、微笑んでいるように見えた。

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文 立岡茂
取材日 2014年4月6日